太陽とひまわり畑

子供たちのよりよい未来のために考えたことを綴るブログ

2月27日から

あの日の夕方。わたしは普通に子供達と勉強していました。ふと鳴ったスマートフォン

 

前代未聞のことで膝から崩れ落ちそうになりました。

首相からの休校要請。???意味わかんないな?

子供達の不安は当たり前で、保護者の方も混乱。そこから今まで、長い休校期間となっています。混乱は今も続いていますし、子供たちの学ぶ権利や心と体の安全についても全く保障されていません。

 

冷静に考えて、何がダメだったんでしょうか。これはわたしがこの休校期間も子供達と過ごしてきて考えてことをまとめるために書いています。

 

①そもそも日付と時間帯がダメ

2月27日は木曜日です。発表されたのは18時過ぎ。

普通に考えて、先生たちの勤務時間外です。そして先生方もあの報道で知った、ということがよりまずかったと思います。

そもそも学校というのは割と腐っている組織の末端になります。トップを文科省とすると、文科省が適当に言ったことが、近いうちに教育委員会に降ってきて、それが末端組織である学校に降ってくるという仕組みです。文科省教育委員会は、学校の仕事を増やすのが趣味なので、基本的に学校の味方ではありません。

 今回もまた、学校がとばっちりを食った形になります。もちろん、最大の被害者は子供達ですけど。

 

 また、3月2日から休校ということは月曜日には子供達は家に居なくてはならないため、学校側が対応のために使える公的な時間はなかったことになります。そもそも勤務時間は午前8時からですしね。

 ですから、金曜日に全て渡して下校させただけで先生方のありえないほどの努力があったことになります。

 千葉市はそれは無理だと判断して、2日も登校していましたね。正しいというか、学校のためではあったと思います。土日も出勤されたんでしょうね、きっと。

 

 この辺り、文科省大臣は物申しても良かったと思うんですけど、文科省は呼吸していないですし…期待するだけ無駄ですよね…

 でも、多分これは小6の子が考えたって無理だってわかるはずなんですよね。それがわからない政治家が頂点にいることによって引き起こされた悲劇の始まりでした。

 

②ずるずると延びているのがダメ

 この見切り発車かつ適当な感じに延びていく。子供達も保護者の方も、わたしも全く見通しが立ちません。これは要らぬ不安を呼びます。

 

③貴重な行事を軽視しているのがダメ

 送る会系、卒業式など盛り沢山な3月。ここでまた縮小をどうするとかそういう議論を生むことになりました。その議論自体はした方がいいことかなと思うのでいいのですが、議論する時間がなさすぎて基本的に中止でしたよね。

…これ、心の配慮がないことなんですよね。もちろん、仕方のないことではあります。密集がまずいのですから。例年通りやれないことは、仕方なかったかもしれません。

だとしても、どうして自分たちだけ?(いや、もしかしたら来年もかもしれないけど)どうして、自分の子だけ?感は拭えません。

 やり方や内容についてはさておき、通過儀礼としての卒業式というのは、多分心のために必要なんだと思います。ここまでが終わったんだな、という区切りとしてというのでしょうか。また、卒業までに過ごす時間というのも…うーん…わたしにとっては大切な期間だったので…なんだかなぁと。この辺りめちゃくちゃ引っかかっています。

 送る会系も、送られて初めてあー…終わるのかという気持ちになれるものでもあったのかなと。全ての学年が自分たちのために何かしてくれるのって結構嬉しいみたいですよ。もちろん、全ての子にとってではないと思います。

 

さて、今思いつくのはこのくらいでしょうか。この日の前後だけの課題です。そこからの休校期間はさらに課題が山積みだと思っています。

 

 2月3月だけで、どれだけ多くの人を傷つけたんでしょうか。どれだけ傷つけていけば、人を蔑ろにすれば現政権は納得するんでしょうか。これは間違いなく、政治の事故です。コロナのせいじゃないです。

 

 わたしは、先生を辞めていてよかったと心の底から思いました。現役で頑張っている方には申し訳ないですが。わたしは自分が一緒に過ごした子供達とあんな風にお別れするのは嫌です。6年担任だったら尚更です。卒業式まで会えないけど、なんて言えなかったと思いますね、泣いちゃって。

 さて、長くなりそうなのでひとまずここで切りたいと思います。この日からわたしのとんでもなく忙しい毎日が始まります。少しゆとりができたので(といっても本当に少し)書きました。まだまだ書き残したいことがあるので、また書けるように頑張ります。

 

 

 

 

定期テストを終えて、学びを振り返る

中学生というのは、本当に忙しいのだなと実感した一年でした。まだ終わっていませんが。

 

先日、一年間の定期テスト全4回を終えました。学習スペースを開けた時は6月で、第一回定期テストの頃だったことを考えると、一年間、彼ら、彼女らのテストの結果を見守ったことになります。

 

わかったことは、努力は決して裏切らない、ということでした。

 

もちろん、欲しい点数までいかなかったときがあり、そういう子がいます。

ただ、テスト前だけではなく積み重ねた分だけできるようになったものはあります。わかっていたことがシンプルに形になって返ってきたように思います。特に今回は。

 

たとえばとある女の子。

不登校だった関係で、小学生時代の算数が一部抜けてしまっています。

それを本人は強く自覚していたため、中学に入る前から入ってすぐも、カバーしなくちゃという気持ちでいました。ただ、苦手なものであるのは多分事実で、やってはいるけど避けたい…みたいな気持ちもあったのでしょう。

本気で数学の点数をあげたいと言っていたのを聞いたのは今回が初めてだった気がします。そのくらいの熱意を今回は特に感じました。(ただなんかわたしの記憶ではよくここで地理をやっていた…解説は数学をたくさんした気がする)

 

授業が終わったらすぐに学校で配られているワークをやる。わからないものはすぐに私に聞く。数学についてはこれでしたね。

彼女が一番に聞いてくれたおかげで、子供大先生が生まれ、他の子が慌ててやり出したワークの解説をわたしと彼女で分担して(たまにわたしは丸投げしました。ごめんね。)行いました。

彼女は彼女なりに考えてなんとか伝えようと頑張っていました。微笑ましくもあり、頼もしくもありましたね。

 

たとえばとある男の子。

彼は国語がとても苦手です。

そのため、読解力の基礎をつけるために小学生向けのある問題集に取り組んできました。

買いに行ったのが11月末で、そこからコツコツやっていたんですが、お?と思ったのが1月中旬。

私への質問の仕方が変わりました。

前まではこれがわからないです、みたいなぼんやりとした感じだったのが、

先生、これはこういうことですよね?

に変わったんですよね。それ以外にも変化はあったのですが、言葉と言葉が頭の中で繋がり出した感じがしていました。

そして、彼はどの教科についても割と満遍なくコツコツやっていくタイプでした。ほぼ毎日来ていましたし、めげませんでした。

 

この2人は仲が良く、教え合う姿も見られた2人です。

今回最後のテストで、女の子の方は目標を達成し、男の子の方も苦手だった国語の点数が伸びました。

 

点数だけで評価をするつもりはもちろんありませんし、彼らのテストについて私の評価は本来必要ありません。

ただ、私はこれまでの頑張りについて彼らに拍手を送りたいなぁと思うんです。よくやった〜!頑張ったねって言ってあげたい。まぁ本当に言ったので、ここに書いているのは記録としてなのですが。

 

テストだけで学力を比べ、優劣をつける。

多分これほど無駄なことってないと思うんです。これをずーっと中学、高校、受験と繰り返していて本当に日本の教育ってアホだなって思いますが、学びの本質的な面白さは優劣、競争じゃない…はずなんです。優劣と競争だけだったら悲しくてつまらないです。

言いたいことが言えないから、言えるようになりたい

とか、

知らないものを知って、別の場所にも行ってみたい

とか

〜したい

を生み出すために学んで、学んだ先に次のしたいことが生まれる、その繰り返しなんじゃないかなぁと。

知識はしたいことをするための力になるもので、素地は必要だけれど点数は必要ない。

なーんてことを考え始めると、ここを学習塾だと捉えている方には?って顔をされてしまうかもしれないのですが…

 

今回、確実に彼らは

どうやったら自分がほしいと思った点数に近付けるのか

を考えたと思います。3回分の成功、失敗を丸ごと受け止めて考えて。私が一番してほしいことはこれなんです。先生にやれと言われたからやる、のではなくて、自分がしたいこと(テストについてはこの点数を取る!みたいなこと)のために何が必要か自分で考える。

そういう意味で、ただテスト勉強をするという無意味でつまらない学びから一段上にシフトした学びの中にいつの間にか彼らはいてくれたように思います。

 

これからも彼らの背中を見守りつつ、成果だけではなくプロセスを大事にする場所であり続けたいと思う気持ちが強くなりました。

 

誰かが来ると

「おかえり」

と声をかける。

誰かが帰るとみんなが

「ばいばい」

「また明日」

と言える温かい場所。

 

「ここが安心するんだよね」

「ほっとする」

「先生、ありがとうございました!」

 

こういう声が聞ける限り、私のやっていることは間違っていないと思えるし、ここがまだまだ必要なら私も彼らの本気に本気を打ち返したいなとも思います。

ひとまず中学生、お疲れ様でした!

また明日からもほどほどに頑張っていきましょう。

2020年の目標

ずーっと考えていて、更新できませんでした。

 

2020年。来てしまいました。毎年どんどん加速して早く終わっていく感じがします。

でも今年こそ、ちゃんと目標を立てようと思って、学習スペースの方も色々やろうかとは思っているのですが…その一環で、わたしも考えて書いてみました。

2020年の目標。というか、やることリストですね。

 

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目標、と言われるとちょっと大きなことを書かなきゃいけない気がしてしまいますが、そんなに大きなことはできないので…

まだ途中ですし、多分少しずつ増えていくと思いますが、今思いつくのはこれくらいかな。

書いたからにはやりたいです。

 

中1の子達にはちょっと書いてもらいました。まあまあ悩んでいたかな?

わたしももう少し書き足して、それを参考にしてもらえたらいいな。

 

遊びも勉強も、やりたいって気持ちが一番強いと思うので。

 

2020年もどうぞよろしくお願いします。

君の存在を意識する

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読み終わりました。

…途中、まとまった時間がとれずに、読み終わるのに時間がかかってしまいましたが、なんとか読み終えることができました。

 

この本で言う「君」というのは、おそらく、社会的に見えないことにされているたくさんの「君」なんだろうなという思いで読んでいました。

 

 本を読むのが苦手、文字を書くのが苦手、男らしさ、女らしさを要求されるのが苦手、匂いが苦手(柔軟剤等を含む)など、様々な苦手、生きにくさを抱えた子たちがそれぞれ主人公になって描かれていますが、この子たちと同じような苦手をもつ人は、多かれ少なかれ、社会にも学校にもいて、しかもかないり排除される対象にもなっている印象です。…排除するので、いいのかな?という感じですが、まだまだそういう子たちへの適切な指導、環境が整っていないのが現状かと思います。

 

 対応の仕方も先生によってかなり異なり、とある先生は典型的なダメタイプなのですが、それもまたリアリティがあります。リアリティがあっては本当はいけないことだと思いますが、教師あるあるだ~とリアリティを感じてしまうくらいにはリアルな「押し付け」「決めつけ」の指導は令和になった今でも当然のように行われています。本の中でも、おそらく現実世界でも。

 

 最後の章で出てくる女の子は、典型的な「優等生」でありたい、誰にとっても「いい人」でありたい子なのですが、学校では問題児に見えない子が実は苦しんでいるというのもなんだか納得できてしまうなと思いました。この子はストレスで過食になってしまうのですが、過食も拒食もわかりやすく心と体の不調なのに、親はそれに気付かないでどんどん食べさせる。それも兄が親にとっての「失敗作」で、その子は期待の星だからなんですけど…。その辺の親と子の関係も少し心配になりました。子供は親の所有物ではないんです。コントロールする側でもされる側でもない。子供は親に無条件で従う必要はない。その逆も然りで、子供のわがままや言い分を全て親が飲み込む必要もない。

 ただ対等に尊重し合うことが必要だと思っていますが、実際はそうなっていないというところが描かれていて、これも生々しく感じました。6年という短い教師人生の中で出会った家庭全てが円滑に回っていたわけではないからです。(担任という立場から見ての感想ですけどね。実際の様子を見ていたわけではないので、100%そうかはわからないですが。)

 ほかの章に出てくる子たちは割と学校で浮いている、いわゆる問題児扱いをされている子たちなので、最後にこういう一般的な子が来るという構成も面白かったです。優等生だって生きにくいんだという事実は、きっとというか、多分ある。

 うちのスペースで学習している子たちも優等生まではいかないけれど、いい子たちです。それでも、生きにくさ、楽しくなさは感じている。もちろん楽しい日もあるんでしょうけど。なんか、その辺どうにかならないかなぁとぼんやり思ったラストでした。

 

 というわけで、冬休みになりますし(といっても休みがたくさんあるわけではないですが)読書を再開していきたいなと思います。

 

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 梨屋アリエさんという作家さんのお話だったので、梨屋さんの本を中心に読みたかったものを借りてきました。題名が素敵だなと思ったものもありますし、勉強のためにと思って借りてきたものもあります。

 2019年はあまり本が読めなかったので、ラストは頑張りたいなと思います。

 

 

大体1年前の今頃

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わたしはこんな付箋を残していました。

実はもっともっとたくさん残している付箋。書き始めたのは、とある事件が起きたときだったので遅いのですが、この頃から卒業の寸前まで記憶に留めておきたくて書いていました。 

今日ふとページをめくったら、思い出してしまいますね。

 

1年前のわたしは、こんなに楽しかったんだなぁと。

どの子のこれがよかったとか、できるようになってたとか、成長を感じたとかそんなことがたくさん書いてあって、付箋なので一つ一つは短いのですが思い出をきちんと思い出せる自分にちょっと安心しました。

 

多分これは結構話していますが、あの子たちでなければわたしは一緒に楽しく過ごすことはできなかったし、6年生を走り抜くことはできなかったと思います。…まぁ、責任感として走り抜いたかもしれませんが、キラキラした思い出にはならなかったように思います。

 

だからもしかしたら、誰よりもあの一年の思い出にすがっているのはわたしなのかもしれません。

 

…はぁー…ちょっと落ち込むことがあると、思い出に浸りたくなりますね。笑

今日はこの付箋を貼りためたノートを読んで、懐かしき気持ちになりたいと思います。

反省文を書けば忘れ物はしなくなるのか

ここのところ、よく聞く反省文。

どうやら学年で取り組んでいるみたいです。

ある一定の回数忘れ物をすると、反省文を書き、それをクラスのみんなの前で発表する。

 

…めちゃくちゃ面倒くさくない?

という正直な感想です。わたしが先生なら絶対やりたくない。書かせる時間も、発表を聞かせる時間も無意味にしか思えないし、そもそもそんな時間を捻出するくらいならレクやりたい。楽しいことしてゲラゲラ笑いたい。

 

見せしめのようだ

という言葉を、うちのスペースにきてくれているとある子が言いましたが、そう見えたのならそうなのだと思います。

 

考えた方がいい点は

・反省文を書かせることで忘れ物は減っているのか

・反省文を書かせたことで忘れ物が減ったとして、反省文がなくなった後でも忘れ物は減るのか

・そもそも、なぜ忘れ物を減らしたいのか

 

かなと思います。

そもそも忘れ物を減らしたいのは誰なのか、が大事だと考えます。

忘れ物が多くて授業についていけなくなるから困ってしまう生徒なのか、それとも忘れた子に個別にフォローするのが大変な先生なのか。いったい誰が忘れ物で困ってるんだ?って話です。

困っていないなら、改善する必要はないんです。忘れ物したって困っていないなら、子供たちからは改善しようとする気持ちは起きてこないし、それが起きないのに先生が躍起になって忘れ物減らそう!って言ったってなんで?となりますよね。

自分のことを考えれば、忘れ物をすると困るのは自分です。タオルを忘れたら手が拭けない。リップを忘れたら唇がカサカサになってもそのままにするしかない。水筒を忘れたら、いちいちコンビニに入らなければならない。

わたしは大人で、お金も死なない程度に持って歩いています。だからお金で解決できますが、無駄な出費です。無駄な動きも増えます。気持ちもスッキリとはしないです。だからこそ、次の日は昨日忘れたものは特に強く頭に残っていて、気をつけてカバンを見たり、チェックをしたりすることが多いです。さすがに2日続けては忘れないです。まぁそれでも忘れることはありますけどね。

 

自分が困るから、なんとかする。

という動きは理解できるし、共感できます。

でもやっぱり、反省文に納得ができない。

忘れ物をして、隣の人に見せてもらうことによって隣の人に迷惑をかけるから忘れ物をなくそうってことですかね?何を意図してやっている活動なのかさっぱりわからない。

もちろんわたしは、子供たちの話しか聞いてません。学校がどんな意図をもってやっているのかわかりません。

それでも、今日、とある子が言った

見せしめのようだ

という言葉と

(反省文をみんなの前で読まされている途中で)泣いちゃった子がいて、それを見て(自分が)泣きそうになった

という言葉は、子供たちの本心だったと思うんです。

 

もちろん、その場にいた全員がそう思っていたわけじゃないと思います。

中には、もう少しでお前も反省文だったのになといった感じで、その見せしめに便乗して他人の不幸や失敗を煽る子もいるそうです。

むしろ、その子に何かしなくていいんでしょうか?わたしは、その子の歪みの方が気になります。そしてそういう子に何も指導しない教育現場に疑問を抱きます。(去年わたしのクラスだったらこてんぱんにしてやったのに…という気持ちが拭いきれない)

 

誰かの失敗や不幸を大声で笑う人は、誰かと生きていく共同空間に必要ないと考えています。失敗なしで生きていくことができないからです。そして大抵、そういう人は自分が失敗したときは言い訳をして、うまいこと誤魔化します。誤魔化す頭はいいんですよね。

別にその人がどうなろうとどうでもいいけれど、その人のせいで無駄に傷つく子が増えないでほしいと思うし、傷ついている子たちをちゃんと救ってほしい。話がズレてきました。この話を聞くと本当にはらわたが煮えくり返りそうになるんですよね。もーそんな嫌なやつはボコボコにされて痛みを知れ!と思います。先に心を殴ったんなら、心を5倍くらい殴られろ。

 

…なんだかなぁ。中学校って無駄ばっかりに見えてしまう。

小学校にだって無駄はたくさんあります。成績とか成績とか成績とか。

でも、それ以上に中学にはあるように見えてしまう。

そして楽しく行けない学校なら、いらないなぁとも。わざわざ心を折るためにある場所ならいらないです。のびのび勉強も、青春もさせてあげたい。やりたいことをやれるように、考えをもたせたい。

学校という枠の中で、もうわたしがやりたいことはきっと、ほとんどできなくなってしまうんだろうなぁ。

と、子供たちの話を聞いていて思います。

何が幸せかは

『何が幸せかは自分で掴みたいところですね』

 

中1が私に昨日残していった名言です。

そして、それを言われた瞬間面白くて笑ってしまいました。まさか去年まで教えていた中1がそんなことを言い出すとは思わなかったからです。

 

その子は迷っているようでした。自分が選んだ道を。選んだときにはなかった迷いが、入学して実際に生活してみて浮上してきたんでしょうね。

 

「あの時は(今選んだ進路を取ると決めたとき)そういうことまで考えてなかったなぁ。」

 

そんなもんですけどね。実際。後先ものすごーく考えて行動したりもしなければ、そこまで深く考えたりすることも実はしてないってことが意外と多いのかもしれないなぁなんて、話を聞いていて思いました。

 

『何が幸せなのか』

という問いはきっと生きてる間はわからないんじゃないかなとも思っていて、死ぬ間際にもしそういうことを振り返るタイミングがあれば「…あぁ、幸せだったな」とかそういう風に思うものなのかなぁとか。

 

確かに去年の私は毎日が驚きと発見と、学びと笑いがあって楽しかったけれど、その反面、我慢しなくちゃならないこと、させたくないのにさせなければならないこと、降りかかる理不尽など楽しくないことも同じくらいあって、あれが全部幸せだったのかと言われればそうではなくて。

今はお金は圧倒的になくて、日々カツカツの生活で、お金の面での我慢はたくさんありますが、仕事としてやっているものについての我慢はあまりありません。ストレスの量だけで言えば去年よりかなり軽減されていると思います。

そういう点で言えば、24時間のうち、比較的幸せな時間は増えていると考えられるのかなと。とはいえお金がないという恐怖はまあまあメンタルを削ってはくるので、オールハッピーわーい!という感じでもないですが、今やっていることがもう少し広がっていけば、現役教師時代よりも幸せだと思える時間は長くなるのではないかなと思います。

 

やりたいことをやる。何がやりたいことなのかを考える。

 

できれば、少なくとも私が関わった子供たちには、そういうことを考えることができるようになってほしいと思っています。

ただテスト前だから詰め込み勉強をするのは、幸せとは逆の行動だと思います。

 

『何が幸せか』を考えることは、今の自分は何を大事にしたくて、どんな行動をしたいのかを考えることに繋がっているんだと思います。

この名言を生み出した彼の迷いが少しずつなくなっていくといいな、と去年の担任はひっそり思っています。