太陽とひまわり畑

子供たちのよりよい未来のために考えたことを綴るブログ

陸上大会と合唱コンクール

もっと書きたいことも書かなきゃいけないことも考えなきゃいけないこともたくさんあったのに…毎日があっという間に過ぎていく…。

 

ひとまずはこの話題から。

今の時期、私が勤務していた地域では高学年の児童が陸上競技の朝練をしています。

…意味がわかんないですよね、これ。

現役時代もそう思っていました。まず、この朝練、子供たちは本来の登校時間よりも30分以上早く来ることを強制します。

この強制についてもずっと疑問で、本来は参加は任意なんですけど形式上の任意なんですよね。参加しないって言うとものすごく「なんで?」ときかれる。任意の参加なら参加したくないんで参加しませんで全く問題ないと思うんですけどね…。

 

そしてもう1点。教えるのはド素人の先生という点です。私は割とずっと100メートル走の担当でしたが、何の知識もありませんし、知識をつける気もありませんでした。正直言って、陸上についての指導の知識を得る暇と活力はありませんでした。

私は陸上のプロじゃありません。(とはいえ、じゃあ授業のプロか?と問われるとそれもまたそれで困るんですけど。)それでも担当を持たないことは許されない。本来の勤務時間は8時からですが、当然7時には学校に来ることになります。ただ働き1時間が確定です。これを秋休みや冬休みに代休として消化してくれと管理職から言われますが、年休(年間に与えられる20日のお休み。いわゆる有給休暇ってやつです。)20日消化できたためしもないのに代休を与えられたって?って感じです。休みはいらない。定時で働かせてくれと今も昔も声を大にして言いたいです。

 

学習スペースに来てくれている子たちも参加していますが…心配になります。寝不足だよなぁと。朝の時間、走ったり跳んだりしてから学習しようって…無茶…としか。

そして働き方改革が進まないのはこういうことだよなとも。

市みずからが行事で学校を縛り、先生、子供への負担を強いる。やりたい子だけがやればいいを認めない。

…そもそも体育の行事多すぎるんですよこの自治体。体育で全ての子が輝く必要はないです。そもそもそんなの無理だし、絶対に学校体育は身体を動かすことを嫌いにさせる…。陸上大会の季節が近づくと、そんなことを思います。

 

そして今年は中学生がいるので、今の時期は合唱コンクールなんですね。

みんな、いやいや言ってるんですけど…笑

合唱コンクールって何のためにあるんでしょうか。教えてください、中学の先生…。

私自身は合唱コンクールの思い出って、あんまりいいものではなくて、苦い記憶です。

担任が勝ちにこだわる人だったので、2年生の時に金賞をとり、2年連覇だ!という流れでしたが3年で銀賞に終わってものすごく怒られましたね。大体、あなたは歌ってないじゃん、練習もしてないじゃんって当時から思っていたし、当時からその先生はものすごく理不尽で嫌な人だったんですけど。

 

やるなら、やっぱり目的が必要だと思います。そして、やりすぎ注意。体育祭と一緒です。頑張らせ過ぎないことが大事。ゆとりは大事です。カツカツでやらせない。それは心に歪みを生みますよ。

 

なんとか上手に見に行けないかなと思ってるんですけど…合唱コンクール

一応子供たちが嫌なりに頑張っているところ、見ておこうかと。笑

 

そういえば、この前うちの学習スペースに来てた子(男の子)が言ってたんですけど

「男子もなんかやれ(指揮者や伴奏者を)とか言ってたけど、そうなると指揮者しかないじゃん。ピアノなんて弾けないし。だったら弾けるやつ各クラスに平等に入れてくれって感じ。」

 

…おっしゃる通り。そもそも、やりたくないならやらなくていい。やりたくないで溢れているならそれが現実なんですよ。

そもそもピアノはお金がかかる習い事で、誰でも平等にできるようになるものじゃないです。それに合唱用の伴奏は素人が練習してどうにかなるレベルなのかは疑問です。(ピアノ習っていた私もめちゃくちゃ練習した)とすれば、習っている子がいる前提ですすむ行事っていうのはどうなんでしょうね。万が一誰も弾ける子がいなかったらどうするんでしょう…。

クラス分けもピアノが弾ける子を分散させる…?必要が…?とも思いますしね。ピアノの能力よりも学力や対人関係など、クラス分けの優先順位が高い項目はもっとあると思います。

 

というわけで迫ってきた2つの行事に子供たちはどんな気持ちで挑むのかななんて思いながら、上手に息抜きすることができるように手伝いたいと思っている次第です。

 

スカートは嫌い

最近中1の子たちはテストが終わったのでスッキリモードのご様子。

そこで飛び交う、こんな話。

 

「スカートなんて履きたくない。二度と履かない。」

「ワンピースなんて持ってないし。」

「制服も選べればいいのに。」

 

話を聞いていると、最先端だなぁと思います。

違和感をきちんと口に出せることは大事です。

 

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今わたしが読んでいるこの本にも、そんなことが書いています。

色々な子が登場していて、作者さんの鋭い目にたくさん学んで書いているということを強く感じます。

 

まず主人公。この子は極端に文章を読むのが苦手です。まだわかりませんが、おそらくLDかなと思って読み進めています。

主人公と同い年の弟くん。わたしのイチオシキャラクターです。笑

彼は生みの親に捨てられ、育ての親は交通事故で死に、主人公の家に養子縁組の制度でやってきた子です。賢いし、彼の考え方に共感できる部分が多くて!養子と血の繋がりと本当の家族とは。その辺りを考えるのに鍵となる男の子です。

 

主人公を取り巻く思春期特有の人間関係も面白いというか、むず痒くなります。意味のない上下関係、気まずさ…などなど。中2の子達が主人公なので。

 

主人公の友達の1人は、漢字が苦手で、イメージできても書き表すとぐちゃぐちゃになってしまう。見た目が可愛いいわゆる、普通の子なんですけどね、それ以外は。

そして冒頭のスカートの話に戻ります。

体が大きくて、女の子っぽくない女の子が出てきます。この子がスカートを嫌だとかそういうことを言っていた描写があったかどうかはわからないんですが、見た目と性別という点では重なる部分はあるのかな?なんて思いながら、昨日は子供達の話を聞いていました。

登場人物の女の子は女だから、男だからというよりは、人として好きだから話をしたい、たとえ異性でもという判断をします。性別は時に不便だよなぁ…と思いました。

 

女だからスカート、男だからズボン。

じゃあ女がズボンを選んだら、それは男になりたいってこと?といえばそれは違いますよね。もちろん、心と体の性別が違うということもあり得ます。ですが、少なくとも昨日わたしが話を聞いていた限りと今までの恋愛の話の感じだと、多分あの子たちは恋愛対象としては異性が好きなのでしょう。

そういった子達も、スカートを強制されることに嫌な気持ちがある。とすれば、気持ちが男の子で体が女の子の場合、その嫌な気持ちはもっと大きいものではないかなと想像してしまったんですよね。

TPOに合わせた服装としての制服という意味はわかるけれど、なんだかなぁ…モヤモヤするなぁと思ってしまいました。

本はまだ途中で、色々と面白くなってきたのでガーッと読みたいんですけど、時間がない😭😭😭

 

世の中、学校、子供達を取り巻く問題の中に

発達障害

学習障害

離婚

養子

といったことはずっと前からあるのに、なんとなく濁されてここまできたのかなぁなんて思います。

大事なのは、この子は障害があるから仕方がない、のではなく、その子の困り感、もしくはその子の周りの人たちの困り感をいかに減らせるかだと思います。

この、周りの人たちというのに教師の困り感は含まれません。家族や友達という意味の周りの人です。

 

読んでいる本の担任の先生は正直、悪い人だと思います。作品の構成上、こういういわゆるステレオタイプな先生は必要だったんでしょうが、教師だった立場から言わせてもらうとひどい…としか…😓

教師にとって都合のいい児童、生徒というのは本来いないんですよね。手がかからない子というのもいない。手はかけようと思えばいくらでもかけられるし、かけないでおこうと思えばそれもいくらでもできるからです。

だから、わたしという個人の意に沿う子供をいい子とするのならば、それはわたしにとって「都合のいい子」であるというだけなんです。

 

教師はサポーターです。教室の王じゃない。

できないことをできないと責めるのではなく、変な意味の合理的配慮をするのではなく、どうしたらできるようになるのか、どうしたらお互いが納得できるのか、それを一緒に考える存在だと思うんですよね。

服装ひとつ取っても、不満やなぜかと思うことはぶつけていい。もちろんぶつけ方は考えた方がいいですが。

その上で双方が納得する形…どうにかとれないものかなぁ。先生や学校が忙しいのもわかっているんですが…。

とりあえず早く本を読み終わりたいと思います!

台風15号

このことを書かなければと思っていました。

9日日曜日から10日月曜日にかけての台風。私がテレビを見ないせいだったのかもしれませんが、ほとんどといっていいほど何の対策もせず、その日を迎えました。

 

私は東日本大震災のとき、もう大人になっていたのでかなり鮮明に覚えているのですが、個人的な被害だけを言わせてもらえば、今回の方がひどかったといえます。

 

日曜日は急遽父が青森から来てくれて、学習スペースのメンテナンスをしてくれていました。そして一日活動して、帰宅したのが9時くらいで、お風呂に入ったり髪を乾かしたりして、エアコンをつけ、扇風機を回して横になりました。

 

風の音が激しくて目を覚ましたのがおそらく2時半から3時くらいでしょうか。父も時々起きていたようです。

その後何度か寝たり起きたりを繰り返しましたが、何度目かで、扇風機が消えていることに気付きました。この時は「父が寒いと思って消したんだろうな。」くらいに思っていました。

 

朝6時半。活動を開始した父の動きで私も目覚め、テレビで天気を確認しようと思ってリモコンを押したところで気付きました。主電源がそもそもついていない。差し込んでも反応しない

 

「父さんが扇風機消したんじゃないの?」

「消してないよ。」

「ええー!?」

 

お互いがお互いのせいにしているという…笑

朝の段階ではそこまで暑くはなかったので、早々に活動を開始しました。ただ、電気が封じられるということは

スマートフォンの電池がなくなったら連絡手段はもうない

・情報収集の手段がない

・電子レンジ、エアコン等一切の電化製品が使えない

ということで、この日以降続く暑さにはとてもじゃないけど耐えられないことがすぐにわかりました。

 

その後、学習スペースのメンテナンスのために買い出しに行ったのですが、そこまでの道中も見たことのない景色が広がっていました。

折れているのは枝ではなく木。剥がれているのは塗装ではなく看板そのもの。かなり大きな水たまりになっているところに車でつっこむのには勇気が必要でした。

 

交通の麻痺。千葉は鎖国状態なんて言われていました。正直言って月曜日は自分の家が停電している、道路が危ない、それだけだったんです。妹の家に避難しましたが、テレビを見ていてもそう思いました。

テレビとツイッターでは情報量が全く違いました。私はツイッターのおかげで月曜日の段階で千葉の被害状況が尋常ではないことに気付くことができたんです。

…またしてもテレビへの不信感を強めてしまうっていう…。

 

火曜日は妹の家からアルバイト先へ行き、火曜日も妹の家に泊まりました。

アルバイト先の近くのセブンイレブンにお昼ご飯を買いに行って驚きました。おにぎりやパスタ、お弁当などが一切ありませんでした。台風の影響で届かなかったそうです。

まるで東日本大震災の時のようだと思いました。私自身は液状化も経験していませんし、停電もその時ですらなかったのですが、スーパーからパン、米、水がなくなるというのには見覚えがありました。

 

水曜日の朝、東電のウェブページを見ているとどうやら自分の住む地域の停電は直ったとのこと。ただ、直っていなかったら困るので夕方過ぎまで妹の家で待機していました。

まぁ、電気は戻っていたんですけどね。

 

停電というのは異様な光景が広がるんですね。知らなかったです。私の地域は本当に一部だけが停電で、少し歩けば明かりがついているような感じだったんです。ある意味隣の家は電気がついて、自分の家はつかない、そんな感じです。私の自宅はだめだったけれど、学習スペースはついたんですよね。

ろうそくなのか、懐中電灯なのかわかりませんが、あのうだるような暑さの中で窓を全開にして明かり一つで夜を過ごす景色…。私は妹の家に避難するという形で逃げましたが、忘れられない光景となりました。

 

で、何が言いたいかというとこんなときに政府は内閣改造とかやってたんですよね。文部科学省の大臣が変わりましたよ。ぽんこつ小泉くんが福島に行くとかぬかしてますよ。今行かなきゃいけないのは福島じゃない。福島も大事だけれど、明日人が死ぬかもしれないのは千葉です。

 

国民に寄り添うというのはどういうことなのかなって考えてしまいます。政治は政治家のためにあるのではありません。私たちがよりよく生きるためにあるのに。どんどん誇れない国、嫌な国に日本がなっていくのが嫌すぎて…もう本当に日本を捨てられたら楽なのになって思います。千葉が大打撃を受けて思ったことはたくさんあるけれど、失望したのは国に対してです。

情報がテレビを通してですら正しく伝わらない。お年寄りが熱中症で死ぬ。養豚場の豚が100頭死ぬ。酪農家が困っている。これって地方自治体レベルで解決する問題ではないはずなんですよね。

 

まだまだ、停電は続くようです。雷でこの家は停電しました。また荒れた天気になるということなのでもうすでに不安です。

作業してくださっている方が倒れてしまうことがないように願っています。私に今できることは、記録しておくことと自分の身近にいる人を守ることだけだと思っています。

手を差し伸べるということ

長かった夏休みが終わって、学校が始まり、ひまわりに来てくれている子たちは若干の疲れを見せつつも、元気に学校に行っています。

 

そんな中相次ぐ、子供の自殺。

どれだけ「死ぬな」と言っても、呟いても、手から滑り落ちてしまうんですよね。

夏休み中の水難事故も毎年あります。小学1年生が小学生として過ごす初めての夏休みを終えられないことだって、毎年あるんです。

 

17歳男子生徒、教室で自殺

中2男子 飛び降り自殺

中1男子 首吊り未遂

 

書き並べただけで辛いですね。何もできないですし、実際。

 

学校とお家だけじゃない、第三の居場所を目指して「ひまわり」という場所を作りました。なんとなく集まって、たまって、喋って、たまにはお菓子も食べて。ほっと一息つける場所。

他の子の宿題が終わったら「お疲れ様」「早かったね」

玄関をくぐるときは、大きな声で「こんにちは」

帰るときは「ありがとうございました」

誰かが帰る時には「ばいばい!」

 

これ、全部私が言えと命令したことじゃないんです。自然に出てくる。それぞれが言うから、ここではそれが暗黙の了解みたいになる。異なる学年の子でも関係ないです。この場所で、年はあんまり関係ないんです。勝手にそれぞれ会話をするし、遊ぶし、勉強もする。

 

目指していたものに近付いている気がします。

昨日いらっしゃった保護者の方も「あなたはどうしたい?」というのを最初に子供に問う方でした。多分、そういう方のお子さんにとって「ひまわり」という場所は合うのだと思います。

あとはできれば、…滑り落ちてしまうどこかで苦しんでいる誰かのところにこの場所が伝わるようにしたいなと思います。ここにきている子供たちはみんな、心が優しくて穏やかで、人の弱さや痛み、温もりがわかる子たちです。だから安心して遊びに来てほしい。

 

私は大人で、一応責任者ですけど、そういうことは関係ないなって思います。私だけが子供たちに何かを授けているのではなく、私も子供たちに日々元気をもらっています。

特に今日は、テスト前だというのに明日のお疲れ様会(自主企画)の話で盛り上がってる中出てきた話が嬉しかったですね。

 

「ここ、居心地いいんだよね。6年2組感があるというか。」

「わかる!」

「6年2組は絶対暖色だったと思う。オレンジとか赤とか。」

「6年生が最高だった。」

 

6年生が最高かは、長い人生の中でまだわからないけれど、少なくとも今そんな風に思ってくれていることは、6年2組の一員としてとても嬉しいです。

過去にすがってばかりもいられないとわかっているので、楽しかったときどんな風にしていたのか、どうなれば楽しくなるのか、そういうことを考える足掛かりになればいいなと思います。

 

「居心地のいい場所」であるように。

できれば、私やこういう場所を求めるひとに手を差し伸べることができるように。

考えることを続けます。

母という存在

私の家族は仲がいいです。多分これは昔からで、今もそうです。

 

ここ最近の私は情緒不安定で、本当に他愛もないことで大泣きします。

一番最近泣いたのは映画「ミュウツーの逆襲」です。(子供たちにもそんな話をしました。子供たちは笑っていたけれど)

 

私の情緒がいつも落ち着いていたのは、母がいつでも話を聞いてくれていたからだと思います。それは年をとっても変わらないです。

 

ついさっき、電話をしました。税金の話です。税金、辛いんですよ。泣

 

私「税金払っても、何の恩恵もない。搾取されるだけ。辛いだけ。年金だって払っても絶対に一円も返ってこない。その前に死ぬし。とっとと日本捨てたい。」

母「じゃあ海外行けばいいよ。行けば話せるようになるよ。」

私「そうなんだけど…。」

母「でも、あなたを頼ってきてくれてる子がいるんでしょ?」

 

私の涙腺はここで終わった…。

そうなんですよね。去年も何度も何度も子供たちの前で

「いざとなったら日本捨てる。」

と言ってました。そのたびに

「ずるーい!」

って言われてきました。今の政治に不信感しかないし、期待も未来もないと思っています。生活苦しいし、国は助けてなんかくれないし。

それでも、目の前の子供たちを捨てることはしたくないんですよね。私は子供に未来を考える力をつけてほしいし、私のところで休んでほしい。頑張りすぎなくていいよって言ってあげたいし、思いっきり笑ってほしい。

 

母はぐさっと確信をついてきますね。合ってます。

 

「今年はきついかもしれないけれど、でも、やりたいことはちゃんとやり続けた方がいい。」

 

母のこの言葉は重くしみました。

やりたいことを肯定できる力は、母からもらったものです。せっかくもらったこの力は、少なくとも私と出会った人に還元できるようにしたいです。

よく友達には話していますが、私は正直、自分の子供がほしいとは思っていません。今この世に生まれた子供たちが少しでも素敵な未来を掴めるように手伝いたい。私と一緒に過ごすことで、私の考え方とか生き方とか、そういうのが少しでも心に残ってくれたら、本当にそれだけで充分です。

血をわけた子供じゃなくて、魂をわけた子供達が、いつか大人になったときに「先生、話したいことたくさんもってきましたよ。」って言いに来てくれるのが最高の喜びです。7年後に一緒にお酒飲めるのが楽しみです。

自殺といじめと9月

9月が始まるときにというか、もうすでにかなり出てますけど

 

学校に行かなくていいんだよ。

 

という言葉。 

 ちょっと思ったことを書いておこうと思います。

 

自殺するくらいなら、つまりは自殺するくらいいじめが深刻ならば身を守るために行かなくていい。

まぁ、わからないではないかな。ただ、これが合ってるとも言えないのかなと。

 

確かにいじめっこの方に休んでもらいたいですよね。なんでいじめられた被害者が学校休んで不登校になって、学習もできなくて友達も作れなくて。もし、その被害者の子がそういうことをやりたいと思っていたのならば、やっぱりそれはその子が楽しく学校で過ごせるように、大人が頑張らなくてはならない気がします。その子に関わる大人だけではなく、文部科学省とか、行政とかそういうレベルで。ただ、そこにはお金も時間もかかる。人間関係の問題だから。だからこそ、確かに学校ではいじめの案件は煙たがられてしまう傾向にはあるのだと思います。

実際、管理職を混ぜていじめの対策をするとなると、途端にフットワーク重くなるんですよね。私は自殺者が出てしまったいじめの案件を目にすることはありませんでしたが、いかにもこれは間違った動きだろうというものを目にしたことはあります。

 

ただ、いじめっ子、加害者側のもつ問題もあります。

6年しか教員生活をしなくても、結構な割合で見てきました。いわゆるトラブルを起こす子にはその子のせいではない問題が隠れています。もちろん性格的に荒い、という側面もあるのかもしれませんが、圧倒的に『愛情不足』が原因だと思います。

 

それはお母さん、お父さんのせいだからなんとかして、と言いたいのではないです。忙しすぎる社会が悪い。8時間働いても家族を養えない給料しか払わない、この生産性の悪い社会が悪いに決まってます。子供を産み、育てたいと思って家族をもった人が悪いなんて思えません。親は忙しすぎる。その結果、愛情不足、承認不足の子は思っていたより多かったなと思っています。

そういう子はどうやったら人に無条件で愛してもらえるかわからないんですよね。ちょっかい出したり、これは悪いことだと思っていてもやめられない。だってそうしないと構ってもらえない。はじかれる前にはじかないと、もしはじかれたときに自分には慰めてくれる、安心できる場所がない。

 

私は死にたいと思ったことは、本当の意味ではないです。でもふと、「砂みたいにさらさらっと風に吹かれて消えていけたらいいのに」と思うことはあります。でも、そんな簡単に消えることなんてできないですし、去年の保健の授業で「俺たちが20歳になったらお酒飲みましょうね」って言われたから、あと8年は頑張らなきゃなって思っています。

 

今死にたいって思ってる子がいるのだとしたら、私は

「じゃあちょっとその話、話せるなら聞くよ?話したくないなら、一緒に美味しいものでも食べようか。」

って言える人でありたいなって思います。

自殺はね、したことないからわからないけど、自殺する勇気があるなら声を出す勇気をもってほしい。どこでもドアが切実に欲しい。近くにそういう、話せる人がいないなら私が聞くよ。子供の自殺のニュースを聞く度、そんなことを思います。

9月だから、新学期だから苦しいんじゃない。ずっと、いつでも、どこでも苦しい人は大人でも子供でも関係なくいる。日本は自殺の多い国で有名ですよね。そんな国じゃなくなるといいなと思うし、そんな国じゃなくなるように考えたり動いたりしていきたいなと思います。

 

いじめを受けた側は間違いなく苦しい。でも、してる側も苦しかったり、なんでそうなったのかわからなかったりもしている。

苦しんでいる人にとって、どんな形が解決といえるのか、心がすっきりするのか、そういうことを考え、寄り添える人でありたいなという思いを強くしながら、9月を迎えます。

決まっているからやるのではなく

今日はとても嬉しいことがありました。テスト勉強をしに来ている子たちと話をしていたら脱線して(ごめん)、自由研究と中学校生活の話になりました。

 

「本当は、社会をやりたかった。」

 

というので、内容をきいてみると他の国と日本の違いとか…と言いながら出てきたのは「校則」の話。

 

・スニーカーソックス禁止(くるぶしを怪我してしまうから)

・髪を結ぶゴムの色指定

・靴下の色指定

 

指定されるから、チェックが入る。体育の前や朝の会などでということでした。

 

私「別に髪のゴムが何色でも誰にも迷惑かけないのにね。」

 

強く頷く彼女と、ぼんやりと若干論点ずれながら聞いている彼。笑

 

私「先生に訊いてみた?なんでだめなんですかって。」

 

首を横に振る二人。でも、彼女はもっと色々な不満をもっていて、不満が止まらない止まらない。そして挙句

「中学は楽しくない。小6が最高だった。」

 

担任をしていた身としてはこの上なく嬉しい言葉で、メンタル今弱ってるのでウルっときてしまいましたが、そのことよりもずっと、彼女が彼女の目で見て、肌で感じた違和感をしっかりと口にしていることにとても成長を感じました。この嬉しさ、誰かに伝わってほしい…。自分が関わった人が、自分の頭で考えたことをきけるのってこの上ない喜びだと思うんです。優れた観察力だと思いました。

 

服も自由、髪型もゴムの色も靴下も自由。それで何不自由なく生きてきたのに、突然理由もなくあれもだめこれもだめ。息苦しさがあって当然だよなぁと話を聞いていて思いました。その違和感がなくならないまま、それを怒りというか一種の理不尽のように考えながら心の奥に持ち続けている彼女がとても逞しく見えて、それも嬉しかったですね。こんな風に子供たちと議論というか、一緒に学校のことを考えるということをしたかったんです。

 

私は中学生の頃、担任のことも嫌いでしたし、授業が上手い先生以外は本当にみんなほぼ嫌いでした。嫌いって言っちゃだめですね。好きじゃありませんでした。今でも英語の先生と社会の先生には感謝しているくらい好き…というか、教え方上手かったなぁと思っています。

私は中学生の頃から私で、理不尽は大嫌いだったんですよね。先生の言っていることといえど、間違ってると思ったら言い返したし(それで先生に言い返されたことがない)納得いくまでは絶対に引かない(納得させてもらったこともない)…っていう問題児でした。

でも、正直先生にたてついたってどうってことないんです。高校だって受験日にテストが解ければ、点数ギリギリじゃない限りは入れます。先生に歯向かったって、どうってことない。実力で勝ち取ればいいだけです。当日の点数に影響を及ぼせるのは自分だけです。もし落ちたって死ぬわけじゃない。高校生なんていろんなことがまだまだです。

 

だからこそ、中学生でイエスマンになってほしくないなって思います。勉強が効率よくできればいいのか?いい高校に入れたらいいのか?そもそもいい高校ってなんだよ?って話です。

そんな話もしました。三者面談で進路について聞かれたときに親が答えたって言った子に対して、もう一人の子が「えっ!?自分で決めるんじゃないの?」ってとても驚いた顔で言っていたのが印象的です。その驚きは合ってるよ。自分で決めるんだよ。

 

自分が歩く道は自分で決めないと。だって親は絶対、自分より早く死ぬんだから。親が作ってくれた道しか歩けなければ、親が死んだとき(かなり自分も年をとってから)に自分で道を作り始めなくてはならない。

大人になってから何か新しいことをやるのって、失敗も怖いし立ち直るのにも時間がかかります。子供ほど素直じゃないですしね。だから、親が見守ってくれている、失敗しても大丈夫なうちに(もちろん、世の中の全ての家庭が失敗しても大丈夫な環境にあるわけではないことも知っています。今日いた二人のお家は、安定している素敵な家族です。)いろいろ選んでみて、やり抜いてみることを体験した方がいいんじゃないかと思います。

 

決まっているからやる、やらされるのではなく、もうやらされていると思った段階でどこかおかしいんだから。

 

まさかついこの前(3月)に送り出した教え子と、こんなレベルの話までできるとは…。教師冥利に尽きるってやつですね。もう先生じゃないけど。笑